
日々生活していると「あきらめざるをえないこと」や「あきらめたくないこと」が多くあります。
「あきらめる」のは,どちらかというと「後ろ向きで,情けないこと」という印象がありますね。
ご存じのように,漢字では「諦める」と書きます。「諦」という漢字は,「糸」と「帝」からなりますが,この「帝」には「しめくくる」という意味があります。ですから「諦」の本来の意味は,「言葉でしめくくる」となります。
似たような字で「しめる」の「締」がありますが,この字は文字通り「糸でしめくくる」ことです。
さて,普段「諦める」という場合,「断念する」とか「思い切る」という意味でしょう。例えば、「ケガで大会への出場を断念する」とか「大好きなあの人のことを思い切れない」などです。
しかし,「諦」という漢字のおおもとの意味は「つまびらかにする」です。漢字で書くと「詳らか(つまびらか)」とか「審らか(つまびらか)」です。「詳」は「詳しく」とか「詳細」と用いる字で,「審」は「審判」や「審査」というように「はっきりさせる」ことです。
このような漢字の意味がある一方,インドから仏教が中国に入ってくると,『お経』に書かれているsatya- という言葉の訳語として「諦」が当てられました。satya- は,「諦」以外には,「真」とか「真実」とも訳される言葉です。
つまり,「諦」には「物事をつまびらかにする」とか「真実をはっきりさせる」という意味があるわけです。
他方,「明らか」という言葉があります。 これは,「曇りなく,光が満ちて,明るく照らしてる様子」を表しています。ですから,「明白(めいはく)」とか「賢明(けんめい)」と言います。このように,「諦める」と「明らめる」には共通点があります。
何事も「詳らかに,明らかに」することは大切です。状況を把握せず,ワケも分からないまま,やみくもに突き進んでも,断念せざるを得ない場面に遭遇するのは明らかです。
「諦める」を言い換えるなら,「物事が,詳らかに,明らかになったから,言葉でしめくくった結果,断念することになった」と言えるのかも知れません。この場合の「言葉」は「意志」と言い換えることも出来るかもしれません。あきらめる(=明白にする)ことは大切です。「あきらめるという考え」ではなく「あきらめるという言動」が重要です。
ですから,大いに諦めるべきです。こだわって,とらわれて,自由を失い不幸になるよりも,諦めて,自由になって幸せを求める方が良いに違いありません。
お釈迦様なら,きっと,このようにおっしゃるのではないかと想像します。「すべてはつながりの中で生じたり,滅したりすることだから,物事をよく見て,ちゃんと知って,自ずから然らしむるに従って,物事にあたりなさい」と。
そして,法然上人のお言葉にはこのようにあります。
『法然上人語法語(第一)』 まさに今、多生曠劫を経ても生まれ難き人界に生まれ、無量億劫を送りても遇い難き仏教に遇えり。釈尊の在世に遇わざる事は悲しみなりといえども、教法流布の世に遇う事を得たるは、これ悦びなり。譬えば目しいたる亀の、浮き木の穴に遇えるがごとし。
現代語訳 まさに今、極めて多くの生涯を繰り返しても生まれ難い人間の境界に生まれ、極めて長い年月を送っても遇い難い仏教に出遇いました。釈尊の在世に遇わなかったことは悲しみでありますが、その教えが伝わっている世に遭遇することができたのは、まことに喜びであります。たとえば、盲目の亀が、大海に浮かぶ木の穴に、偶然首を入れるようなものです。
私たちがこうして生かされていること。そしていろんな出会い。すべては「ご縁」です。ご縁は「つながり」です。しかし,普段の生活ではその「つながり」の意味に気付かないことも多くあります。この命,つまり,この人生を得たことを恨んだり,後悔することもあるかもしれません。しかし,この命にもこの人生にも意味があるはずです。そこに当たり前のように存在する「ご縁」を生かすのも,無意味にするのも,自分自身です。「当たり前と感じること・面倒と感じること・イヤなこと」,それらに対する価値観の転換が,人生を豊かにするかもしれません。生きていると「どうしようもない時」があります。「どうしようもない時」は,「今まで避けてきたこと」「イヤだったこと」をしてみるのも一手です。同じことを繰り返してしまう私たちですから…。
「お念仏」は「仏行」です。「仏行」とは「価値観の転換」です。それを「回心」といいます。お念仏は簡単です。「南無阿弥陀仏」ととなえるだけです。その中に「一切の仏行」が込められています。そこに「回心」があります。
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