
皆さんは普段の生活の中で「信じる」という言葉を口にしたり耳にしますか?おそらく頻繁に出会う言葉でしょう。
例えば、① あなたはご家族を信じていますか?
② 私は自分を信じているから大丈夫。
③ あの人は全く信じられない。
④ 神仏を信じていますか?
⑤ 日本の将来を信じています。
⑥ ウソやうわさを信じる。
これらの文章はすんなりと理解できます。しかし、同じ「信じる」にも色々な言葉があり、意味あいも変わってきます。
① あなたはご家族を信頼していますか?
② 私は自信があるから大丈夫。
③ あの人は全く信用出来ない。
④ 神仏を信仰していますか?
⑤ 日本の将来に希望を持っています。
⑥ ウソやうわさを真に受ける。
言い換えてみましたが、いかがでしょうか?
私たちが何気なく使っている「信じる」には
かなりの幅があることがわかります。
さて、ここから仏教の話です。
漢文のお経で「信」と訳されたインドの言葉はśraddhāがほとんどですが、この言葉は元々インドのバラモンによる祭式において、「神がまさにこの場所に来ておられる」ことを「信じるか否か」という場面で使われた言葉だったようです。つまり「信じられない」人もいたわけです。 そうです。「信じる」の背後には「疑う」が表裏一体で意識されているのです。そして,「観ずる」つまり「見える」ことでもあったわけです。「見える」から「信じられる」わけです。
また,お釈迦様は「信じなさい」ではなく「知りなさい」とおっしゃっています。例えば『浄土宗日常勤行式』には「仏の教えは尽きることなけれども、誓って知ることを願う」とあります。「信じる」ではなく「知る」です。これは「四弘誓願」として宗派を超えて重要な偈文です。
つまり、正しく知れば「疑い」は消え失せます。 「疑い」がないならば「信じる」も「信じない」もなくなります。
法然上人は、しばしば「信じる」や「疑いなく」と述べられ、『一枚起請文』の中では「念仏を
信ぜん(= 信じる)人は」とあります。
では、この「信じる」はどんな意味でしょう?
「信仰する」や「信心する」の意味でしょうか?
法然上人にとって念仏往生は「炎は空にのぼり、
水は下りさまに流る」ようなものですから、極めて自然なことであって、「疑い」を前提とした「信じる」とおっしゃる必要はないように思われます。
お念仏を「信じる」とか「信じない」という、ある・ない論ではないはず!と感じてしまいます。
そこで、これを「確信」と理解するとどうでしょう?
「念仏を確信する人は」です。
つまり「念仏を〔おとなえして往生を〕確信する人は」です。
一方で,儒教の五常,つまり,「仁・義・礼・智・信」の「信」は「言明したことを違えないこと」「ウソを言わないこと」「誠実であること」という意味だそうです。日本の仏教が,唐の時代の中国に大きな影響を受けている事実を考えると,「信」の漢字に込められた意味を無視することは出来ないでしょう。当時の「信じる」は,「相手を信じる」というよりも,「自分に信があるかないか」が重要だったように考えられます。そう考えると,法然上人がおっしゃる「念仏を信じる」は「念仏によって往生する」「念仏にお釈迦様の教えのすべてが込められている」と自分が「言明したことを違えない」という意味ではないかと思われます。「言明する」というのは,自分の思考が明瞭であるということでもあります。
ここまで読んで下さって有り難うございます。
どうでもいい話と思われる方や、それは違うんじゃないか、と感じて下さった方もおられるでしょう。
正解はわかりません。ただこれは、ずーっと腑に落ちず、スッキリしなかったことが、やっと得心出来た一個人の理解に過ぎません。きっと、こんな事を繰り返しながら、少しずつ信念へと向かうべく悪あがきをするのでしょう。
では、最後にもう一度言い換えてみたいと思います。
① あなたはご家族に願っていますか?
② 私は自分の願いがあるから大丈夫。
③ あの人には全く願いが通じない。
④ 神仏に願っていますか?
⑤ 日本の将来を願っています。
⑥ ウソやうわさは願い下げ。
「信じる」を「願う」と言い換えても文章としては成立します。
「信じる・信じない」というのはどこか受け身的な感じがしませんか? あるいは気分次第という印象です。一方で「願う」と言う時、「ある」とか「ない」をも、すでに超えているように感じられます。
「お念仏を信じる」ではなく「お念仏で願う」。
無理して信じなくても良いのではないでしょうか?
ただし、願わずにはいられない私たちですから、「お念仏で願う」しかないのだと思います。
「願う」の背後に「疑う」はありませんね。
そこにはまっすぐな思いがあるのみです。
もしかしたら私たちは、それを「信じる」と言っているのかも知れません。